ベトナム豆知識

Vovinam – 越武道・ベトナムの伝統的な武術

ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく)、通称 ベトナム(ベトナム語: Việt Nam / 越南)は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和制国家。首都はハノイ。東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨はドン、人口約9,621万人(2019年)。

国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東と南は南シナ海に面し、フィリピンやボルネオ島(マレーシア連邦やブルネイ、インドネシア)やマレー半島(マレーシア連邦およびタイ王国南部)と相対する。

歴史

原始

旧石器時代

最古の人類 – 約40~30万年前の地層からタムハイのタムクエン洞窟(ランソン省)で最古の人類(原人)の歯が発見された。

クアンイエンのド山(タインホア省)、スアンロク(ドンナイ省)など多くの場所で打製石器や剥片石器が発見されている。

約30,000 – 20,000年前 – ホモ・サピエンス(新人)の段階では、グオム石窟(タイグエン省)、ソンヴィー(フート省)、ライチャウ省、ソンラ省、バクザン省、タインホア省、ゲアン省で遺跡が発見されている。打製石器を使用し、移動しながら生活をしていた時代であったと推定される[1]。

新石器時代

約10,000年 – 4,000年前 – ホアンビン、バクソン、クインバン、ハロン、バウチョーの洞窟から磨製石器(短斧・有肩石斧などの刃先を研磨した道具)、礫石器、骨角器が、バクソン、クインバン、ハロンからは土器や石製の鋤・鍬が見つかっている。この時代には、様々な石材を用いて斧・縦斧(刃の片方だけを磨いている斧)・磨石などがつくられた。また、竹・木・骨・角などもつかって道具がつくられるようになった。

自然の採集活動の他にも農耕を行うようになり野菜・豆・カボチャ・ひょうたんなども栽培され、食物に供されるようになった。また、土器の出現によりいろいろな食物・肉類の煮沸が可能となり食生活の改善に繋がったのではないか。さらに、穀類や堅果類を保存することができるようになり食生活豊になり、生活も向上したと考えられる。豚などの畜産や犬などの家畜も飼育されるようになった。

食糧の供給が安定してくると集団で定住するようになり、人口も増えてきて同じ血統の人々が一緒に生活するようになり社会が構成されるようになった。母系制氏族社会ができ、数千年の間続いた[2]。

古代

文郎国(ヴァンラン国, Văn Lang) – 伝説上 – 紀元前8~7世紀頃、北部と北中部にある大河川のデルタ地域に大きな部落(チェンやチャーと呼ばれた)がいくつか形成されるようになった。これらのなかで豊かな者と貧しい者の格差が生じた。その差は次第に大きくなっていった。水稲稲作農業が始まっていた。洪水から収穫をまもるために指導する人が必要になった。さらに、他の部族との衝突や部落内での衝突が起こった。このようななかで文郎国が誕生した[3]。なお、ベトナム史略では紀元前2879年に赤鬼国、文郎国が興ったと書かれており[4]、ベトナム人の間では初代雄王の即位をこの年とする「ベトナム5千年の歴史」という言い回しが存在する。

甌雒時代の遺物、「東山銅鼓」というものである

甌雒(アウラク, Âu Lạc) – 伝説上の国家とする考えが有力(前257年 – 前207年)紀元前257年、秦と先頭になって戦った蜀泮(トゥクファン)は、文郎国の王雄王に譲位を迫った。西甌・駱越の2国は甌雒(アウラク, Âu Lạc)として新しい国が誕生した。蜀泮は安陽王(アンズオンヴオン、An Dương Vương)と名乗り、都を封渓(フォンケー、現在のハノイ市ドンアイン県コーロア)に置いた[5]。紀元前218年、秦は国土拡大のため南方へ進軍し、4年間の戦いの後、甌雒の北部まで近づいた。そこは、西甌(タイアウ)人・駱越(アウヴェト)人の地域であった。西甌・駱越の住民が戦い、6年後に秦軍を退却させた。

南越国(ナムベト国, 趙朝, 趙氏南越国, Nam Việt, Triệu) – (前207年 – 前111年)

北属期

北属期(漢から唐までの中国王朝支配期) – (前111年 – 938年)

ただし、以下に掲げる諸勢力は、中国王朝から一定の独立性を保ったか、或いは中国王朝に反乱を起して一定期間勢力を保ち、ベトナムの古典籍上で王朝或いはそれに類する特別な地位を認められたもの。現代ベトナムの歴史教育においては、これらのうち幾つかを独立王朝として扱うものもある。

第一次北属期 – (前111年 – 39年)

徴氏(チュン氏, Trưng) – (40年 – 42年)

第二次北属期  – (43年 – 544年)

士氏(シ氏, Sĩ) – (187年 – 226年)

248年、富田(タインホア省ハウロク)で趙氏貞が蜂起し、義軍を率い、九真郡にある呉の城を破壊し、交州の至る所へ打って出た。

前李朝(リー朝, Lý) – (544年 – 602年)

第三次北属期 - (602年 – 905年)

曲氏(クック氏, Khúc) – (906年 – 930年)

楊氏(ズオン氏, Dương) – (931年 – 937年)

矯氏(キュウ氏, Kiều) – (937年 – 938年)

独立王朝時代

呉朝(ゴー朝, Nhà Ngô) – (938年 – 966年)

十二使君時代 -(944年 – 966年)

丁朝(ディン朝, Đinh) – (966年 – 979年)

ベトナムの史書は、この丁朝以降を連続した独立王朝時代として扱う。

前黎朝(レー朝, Nhà Tiền Lê) – (979年 – 1010年)

李朝1009年 – 1225年。

1009年、李公蘊によって李朝大越国が建てられ、ベトナムにおける長期的な統一政権が成立した。都はハノイに定められた。李朝は豪族の連合政権的な性格が強く、中国から諸制度の受容を図るが、中央集権的な統治体制を築き上げるまでには至らなかった。

この時代より南進が進められた。

陳朝1225年 – 1400年。

1225年、陳氏によって李朝は滅ぼされ、陳朝大越国が成立した。13世紀後半には3度に渡るモンゴルの侵攻を受けるが(モンゴルのヴェトナム侵攻(英語版))、陳興道らの活躍によって撃退した。1288年の白藤江の戦い (1288年)で敗北した元軍は敗走した。 陳朝の時代には、民族文字としてのチュノムが作られたほか、史書『大越史記』の編纂も行われた。

胡朝(ホー朝, 胡氏大虞国, Nhà Hồ) – (1400年 – 1406年)

属明期 – (1406年 – 1428年)

黎朝1428年~1527年。詳細は 黎朝(レー朝, 黎氏大越国, Nhà Lê)

1407年から1427年にかけてベトナムは明に服属していたが(第四次北属時期(英語版))、黎利(黎太祖)によって独立が回復された。ベトナム南部にまで勢力を拡大して繁栄したが、のちに北部の鄭氏政権と南部の阮氏政権(広南王国)へと分裂した。

分裂期

莫朝(マク朝, Nhà Mạc) – (1527年 – 17世紀)

中興黎朝(中興レー朝, 後期黎朝, Nhà Lê) – (1532年 – 1786年)

鄭氏政権(チン氏政権, 東京鄭氏, 北河, Trịnh, Đàng Ngoài) – (1600年 – 1786年)

阮氏政権(グエン氏政権, 広南阮氏, 南河, Nguyễn, Đàng Trong) – (16世紀 – 1777年)

1788年、ドンダーの戦い(Battle of Đống Đa)で昭統帝が阮文恵率いる西山朝軍に敗れて清に亡命、これにより黎朝は滅亡した。

西山朝1786年 – 1802年。詳細は 西山朝(タイソン朝, 西山阮氏, 阮氏大越国, Nhà Tây Sơn)を参照

阮朝1802年 – 1945年。詳細は 阮朝(グエン朝, 阮朝, 阮氏越南国, 阮氏大南, Nhà Nguyễn)を参照

阮朝の王宮跡

フランス領インドシナ1887年 – 1945年。ベトナムの植民地化を図るフランスは、1883年の癸未条約(英語版)・1884年の甲申条約(英語版)によってベトナムを保護国化した。ベトナムへの宗主権を主張してこれを認めない清朝を清仏戦争で撃破し、1885年の天津条約で清の宗主権を否定した。1887年にはフランス領インドシナ連邦を成立させ、ベトナムはカンボジアとともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。阮朝は植民地支配下で存続していた。

1900年代になると、知識人の主導で民族運動が高まった。ファン・ボイ・チャウは、日本に留学生を送り出す東遊運動(ドンズー運動)を展開した。1917年にロシア革命によってソビエト連邦が成立すると、コミンテルンが結成され植民地解放を支援した。こうした中で、コミンテルンとの連携のもとでの民族運動が強まった。1930年にはインドシナ共産党が結成され、第二次世界大戦中のベトミン(ベトナム独立同盟)でもホー・チ・ミンのもとで共産党が主導的な役割を果たした。1930年に、2月にグエン・タイ・ホック(英語版)らベトナム国民党がイエンバイ省でイエンバイ蜂起(英語版)を起こし、その後、ゲアン省とハティン省でゲティン・ソヴィエト(ベトナム語: Xô Viết Nghệ Tĩnh、Nghe-Tinh soviet)の蜂起が起こった。

第二次世界大戦

1939年にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、1940年6月22日にフランスが降伏すると、同年9月には降伏を受け入れたヴィシー・フランス側の承認の下に、日本軍がフランス領インドシナに進駐した(仏印進駐)。

仏印進駐後のベトナムはヴィシー・フランスと日本による二重支配体制が敷かれた。日本は「大東亜共栄圏」を主張したが、ベトナム帝国として形式的な独立を果たした日は、東京大空襲の翌日に当たる1945年3月11日であった。このベトナム帝国の成立は、阮朝が王政復古を果たした日でもあった。1944年秋から1945年春にかけて、ベトナム北部を中心に激しい飢饉が発生した(1945年ベトナム飢饉)。北部の凶作、収穫米の強制買い付け制度、戦略爆撃によって鉄道網が寸断されたこと、そして日本軍とフランス政庁が有効な対策を取ろうとしなかったことなどが原因で40万から200万人に及ぶ人々が餓死した。飢饉の原因と死者数については様々な意見がある。フランスの植民地支配からの解放軍を自称していた日本に対する期待は完全に失われ、ベトミンの勢力が伸長するきっかけとなった。

8月14日に日本が降伏を予告すると、1945年8月14日から15日にインドシナ共産党の全国大会がタンチャオ(トゥエンクアン省)で開かれた。そこで、全国的な総蜂起が決定され、全国蜂起委員会が設立された。委員会は軍令第1号として全人民に決起を呼びかけた。次の16日に各界・各団体・各民族の代表が出席する国民大会が同地で開かれた。大会は全会一致で総決起に賛成し、ベトナム民族解放委員会を設立し、ホーチ・ミンを主席に選出した。同主席は全国民に書簡で総決起を呼びかけた。 その3日後にベトナム八月革命が勃発し、ベトナム帝国皇帝バオ・ダイは8月30日に退位を宣言した。そして、9月2日には、ホー・チ・ミンは臨時政府を代表してベトナム独立宣言を厳かに読み上げ、国民と世界に向けてベトナム民主共和国の誕生を宣言した。

南北分断時代

1945年9月2日、日本の降伏によって第二次世界大戦は終わり、直ちにホーチミンを首班とする政府を樹立して独立を宣言したが、ベトナムは冷戦による分断世界の巷に巻き込まれた。大日本帝国に勝利した連合国側は先ず中英が進駐し、続いてフランスが進駐し傀儡政権を樹立、再度ベトナムを植民地化し、これに対する第一次インドシナ戦争が始まった。フランスは次第に追いつめられ最終的にディエンビエンフーの戦いに敗れて終結し1954年7月21日、ジュネーヴ協定の調印で決着した。この協定の調印によって、北緯17度線を境に両軍の兵力分離を図り全国統一選挙を実施することになったが、フランスの後を継いだアメリカがジュネーブ協定には参加せず協定の統一選挙実施をサボタージして傀儡政権維持を図ったことでベトナムは完全に南北に分断された。

そして、1965年2月7日、アメリカ軍による北爆によってベトナム戦争が始まった。ベトナム戦争の終わりは、1975年4月30日のサイゴン陥落によって、親米政権が倒された時であった。

尚、日本との和解は、ベトナム共和国(南ベトナム)が1959年、ベトナム民主共和国(北ベトナム)が1973年であった。

南北分断時代

  • 北ベトナム – ベトナム民主共和国(1945年 – 1976年)
  • 南ベトナム
  • ベトナム国(1949年 – 1955年)
  • ベトナム共和国(1955年 – 1975年)
  • 南ベトナム共和国(1968年 – 1976年)

ベトナム社会主義共和国

ベトナムの現代は、1976年7月2日に、ベトナム社会主義共和国が成立して、統一ベトナムが実現した事に始まる。1993年2月にはフランスとの和解を果たした[10]。そして、1995年7月28日には東南アジア諸国連合に加入し、その直後の8月5日にはアメリカ合衆国との和解を果たした。


地理

ベトナムの国土は南北1,650km、東西600kmに広がる。インドシナ半島の太平洋岸に平行して南北に伸びるチュオンソン山脈(アンナン山脈)の東側に国土の大半が属するため、東西の幅は最も狭い部分ではわずか50kmしかない。細長いS字に似た国土の形状を、ベトナムでは米かごを吊るす天秤棒に喩えている。天秤棒の両端には大規模なデルタが広がり、人口の7割が集中する。北のデルタは、紅河(ソンコイ川)によるもので、首都ハノイのほか港湾都市ハイフォンが位置する。南のデルタはメコン川によるもので、最大の都市ホーチミンを擁する。

沿岸の総延長距離は3,260km、北部国境(中国国境)の長さは1,150km、国境の総延長距離は、6,127kmである。

沿岸には北部・トンキン湾を除き、島嶼がほとんど存在しない。本土から離れた領土として、海南島との間にあるバクロンヴィー島、ホーチミン市から約600km東、南シナ海に浮かぶ、ベトナム語名「チュオンサ」(スプラトリー諸島、南沙諸島)と、ダナンの約400km東、南シナ海に浮かぶ、ベトナム語名「ホアンサ」(パラセル諸島、西沙諸島)の領有権を主張している。チュオンサ群島は一部を実効支配し、ホアンサ群島は全体が中華人民共和国の実効支配下にある。ベトナム最大の島は、最西端の領土となる、シャム湾に浮かぶフークォック島である。

主要な河川は紅河(支流であるカウ川(英語版、中国語版)、ロー川(英語版、中国語版)、ダー川)、タインホアに河口を持つマー川(英語版、中国語版)、ヴィンに近いカー川、中部のトゥイホアに河口を持つバー川(英語版)、南部のドンナイ川(英語版)、メコンデルタのメコン川である。天然の湖沼はデルタに残る三日月湖がほとんどである。最高峰は北部国境に近いファンシーパン山 (3,143m)。アンナン山脈中の最高峰は、中部のフエやダナンに近いアトゥアト山 (2,500m) である。


国民

ハノイ市1930頃、アオザイを着ている宝石加工技術者である。アオザイは正装として着用される民族衣装。

民族構成

ベトナムでは公式に認められている民族が54あり、そのうちキン族(ベトナム族)が最も多く、全人口の85%から90%を占める。キン族の言語であるベトナム語はムオン族・セダン族などと同じオーストロアジア語族(モン・クメール語派)語族に属する。ムオン族はホアンビン省、タインホア省の山間部に住み、ベトナム語のゲアン方言などとの近似性が指摘されている。

その他に少数民族としてホア族(華人)、タイ系のタイー族・ターイ族・ヌン族、クメール族、ムオン族、モン族(ミャオ族)、ザオ族などがある。少数民族のうち、ホア族とクメール族以外の大半は山地に住む。

言語

ベトナムの国語書法である。大きくて黄色い字は「忍」字が書いてある。永眠したHoa Nghiem 書道家の作品

言語はベトナム語(越語)が公用語である。その他にも華語(主に広東語、閩南語、北京語)、クメール語なども使われており、フランス領インドシナ時代の影響から、少数のエリート層や高齢者の間ではフランス語が理解できる人もいる。また、ソビエト連邦など共産主義国とのつながりがあったため、ロシア語を理解できる人もいる。ただし、最近の若年者の教育は英語教育が一般的になり、町の看板などを見渡してもベトナム語以外では、欧米人観光客向け(観光客相手に生活していく上でも、英語ができないと生活が成り立たないため)に英語が目立つのが、現在の状況である。

人名

主要民族であるキン族を中心に、ベトナムの人名の多くは、漢字文化圏に属しており、人名も漢字一字(まれに二字)の漢姓と、一字か二字(まれに三字)の名からなる構造は中国と共通している。婚姻の際には基本的に夫婦別姓となる。しかし各字の機能は漢名とは異なっており、名のうち一字目は「間の名」(tên đệm、ミドルネーム)と呼ばれ、末字の名と一体化しておらず、また中国の輩行字、朝鮮の行列字のような世代の区別に使われることもない。目上や目下に対しても、呼びかけに使われるのは末字の名のみであり、間の名は含まれず、また姓を呼びかけに使うことはほとんどない。

名付けに使われる語は必ずしも漢字由来のものに限らず、庶民の間では固有語による名付けがかなり存在している。また少数民族の名前には、上記の説明にあてはまらない固有のシステムを持つものがある。

文化

文学

グエン・ズ像、グエン朝初期の詩人

ベトナム語による文学。ベトナム人の言語であるベトナム語は,話しことばで,チューノム(字喃)(漢字応用の国字),国語(ローマ字綴りのベトナム語)ができるまで,独自の文字がなかった。そのために彼らの感情,意識,思想の伝達は,口伝によるしか方法がなく,それが伝承庶民文学になった。

これら口承文芸は,俗語(俚言)歌謡,伝説,説話(漢文で整理したものに『嶺南摭怪』『伝奇漫録』『越甸幽霊集』などがある)などに分けられる。ベトナムは漢の武帝の時代に中国の統治下に入り,呉権が南漢を破って独立王朝を樹立した 939年まで 1000年以上も中国の桎梏のもとにあえいだ。

その間,中国文化の影響を深く受け,各朝廷の記録,文書はすべて漢文で書かれ,ベトナム最初の王朝史『大越史記』(13世紀)をはじめ,『安南志略』(14世紀),『藍山実録』(15世紀),『大越史記全書』(15世紀末),『大越通史』(18世紀)などの朝廷編纂史が世に出るとともに,『征婦吟』(鄧陳琨,18世紀)などの漢詩が出版された。この漢文学と並行して,自主独立を目指し,胡王朝(15世紀)と西山王朝(18世紀)のときにチューノムが考案され,それによる長編韻文詩が国民文学として世に現れた。

チューノム訳の『征婦吟』(ドアン・ティ・ディエム(段氏点)のものが一般に流布),『宮怨吟曲』,『花箋伝』,『キム・バン・キェウ(金雲翹)』『ルック・バン・ティエン(陸雲仙)』などが有名である。しかしチューノムは漢字の知識があって初めて理解できるという難点があったために,17世紀に渡来したヨーロッパの宣教師が用い始めた学習に容易な「国語」に取って代わられ,20世紀初期には死字となった。

次に登場した「国語」による文学は,フランスの植民地であった影響で,外国文学,特にフランス文学の影響を受け,近代文学の内容と形式を整え始めた。ニャット・リン,カイ・フンらによって創設された作家グループ「自力文団」は,彼らの機関誌『フォン・ホア(風化)』,のちに『ガイ・ナイ(今日)』を発行して大いに文学活動を続けたが,両誌ともフランス官憲によって廃刊となった。1920~40年代には「自力文団」のほか,「ハン・トゥエン」グループ,「春秋雅集」グループなどがあって,それぞれの文学主張をもち,多くの小説,詩を世に送った。

音楽

ベトナムの伝統音楽は、国内外からの文化的影響を多分に受けており、とても多様で混合的な音楽文化体系となっている。歴史的には、中華人民共和国の音楽文化からの影響が大きく、その存在は不可欠であった。ただしこれはベトナムだけでなく、韓国、モンゴル、日本についても言えることである。チャンパ王国時代の音楽文化もまた、現在のベトナムの音楽に対して幾らかの影響を残している。

1.宮廷音楽

ニャー・ニャックは再現されている風景。銅鐘と石琴の演奏である。

ベトナムの宮廷音楽はニャー・ニャック(Nhã nhạc)、ダイ・ニャック(Đại nhạc)、ティエウ・ニャック(Tiểu nhạc)、に分類される。ニャー・ニャックは”雅な音楽”(儀式の音楽)、ダイ・ニャックは”大きな音楽”、ティエウ・ニャックは”小さな音楽”(王のための室内楽)を意味している。宮廷舞踊は、バンブ(van vu、召使の舞踊の意)とボブ(vo vu、軍の舞踊の意)の二種に分けられる。これらはそれぞれ中国の文舞と武舞に由来する。宮廷音楽は、神や孔子のような偉大な学者を称えるために、宮廷だけでなく寺院でも演奏される。 ニャー・ニャックは最も有名な宮廷音楽である。陳朝から阮朝までの間に統合され、特に阮朝時代に発達した。ニャー・ニャックとともに、ベトナム宮廷舞踊が今日まで伝承されている。宮廷舞踊の主な目的は、王の長寿と国の富を願うことである。

2.民謡

ベトナムの民謡(dân ca)は極めて多様である。クァンホ、ハット・チャウ・バン、カ・チュ、hò、hát xẩm、などの様式がある。

チェオ

チェオ(Chèo)は、ベトナム北部で行われてきた農民による風刺的な音楽劇に由来する。それはこれまで公共の広場などの野外で、愛好家によって演じられてきた。とは言え今日では、専門の演者により屋内で演じられるものにまで高められるに至った。

Xẩm

Xẩm(Hát xẩm)とはベトナム南部の伝統民謡の一種である。今日では、絶滅寸前の音楽であると考えられている。王朝の時代には、盲者が生活費を稼ぐために公共の場で演奏するものであった。楽器はダン・バウやダン・ニー、また打楽器が用いられる。

クァン・ホ

クァンホ(Quan họ) は、ハバク (現在のバクニン省とバクザン省)を始めとするベトナム全土にわたって人気の音楽で、数々の変種が存在する。求婚の儀式の中で、即興で独唱される。

ハット・チャウ・バン

ハット・チャウ・バン(Hát chầu văn、hát văn) は、 式典における祈りの音楽である。. 非常にリズミカルであり、恍惚へと誘うものである。1986年以前、ベトナム政府はHát chầu vănをはじめとする宗教的表現を規制していた。しかしその後、 Phạm Văn Tỵ.などの音楽家によって復興された。

現代様式の民謡

現代様式の民謡は現代様式のベトナム民謡である。1956年にハノイ音楽院が創設された後に誕生した。この誕生は、西洋からの記譜法、和声法、楽器法の輸入とともに起こった。Nhạc dân tộc cải biên はしばしば伝統音楽に対して保守的な人々によって、伝統の音楽を低俗化したものであるとして批判される。

カ・チュ

カチュ(Ca trùまたはhát ả đào)とは、女性歌手Ả Đàoが発端とされる民謡の一形態である。主に女性が歌うものである。この民謡様式は以前は売春と関係があり、1980年代に共産党政権が規制をゆるめた際に復活した。

カチュには多くの形態があり、 元々は宮廷で行われていたが、学者や上流階級の人々のためのものへと移行していった。カチュはその様式の類似性から、芸者に似たものであると説明されることもある。

“Hò” は男女の対話による即興歌である。主に愛や郷土などを題材とする。カントーで盛んに行われる。

儀式の音楽

Nhạc lễは仏教の儀、神社の儀、葬儀などの音楽である。

伝統的な武術の代表:ボビナム

ボビナム(Vovinam、越武道、Việt Võ Đạo)はベトナム発祥の総合武術である。

グェン・ロック先生ーボビナムの設立祖師

1936年にグェン・ロックによって設立、1938年より一般に広められた。その目的はフランスやアメリカなど列強諸国に抑圧され続けた長い歴史の中で、ベトナム民族を 「武術によって心身ともに励まし鍛える」 ことであった。植民地支配に端を発するベトナムが置かれた複雑な歴史は、ボビナムの技に西洋と東洋の格闘技の要素を混合することとなった。 東洋の中国拳法、古武術、西洋のレスリング、キックボクシングなどが研究分析され、個性的かつ合理的な技術形態が練り上げられていった。訓練は手、肘、脚、膝を使った肉体的なものにとどまらず、剣、ナイフ、扇子、爪、薙刀などの武器を使う技も存在する。

ホーチミンに本部を置く世界ボビナム連盟が加盟国を統括し、現在、ただ1人だけが選ばれる世界最高師範にはマスター・グエン・バン・チュウ(NguyễnVănChiếu)が就いている。

ボビナムは効率的な護身術としてグェン・ロックによって1936年に研究開発された。1859年以来のフランスによる植民地支配から解放されるために必ずやボビナムが有効手段となると信じ、1938年からは個人的な伝授をはじめる。もともとグエンが有していたベトナムの伝統的武道の知識に、世界の格闘技の要素を加え、独自の武道ボビナムを構成していった。1940年にハノイでボビナムを公に紹介する機会があり、それをきっかけにグェンはハノイの高等師範学校に招かれ、ボビナムは一般に一気に浸透することとなる。ベトナム全域で政治不安が高まった1954年に、グェンは南ベトナムに移住、ボビナム専門の学校を設立する。1960年にグェンが死去、2代目の世界最高師範としてレー・サン(Lê Sáng)が就任。門派の規則やカリキュラムが作成され、ユニフォームの色が「海と空の希望の色」青に定められる。1990年にはロシアにおいて公演が成功し、諸外国からの注目が集まる。2000年までにオーストラリア、ベルギー、カナダ、フランス、ドイツ、イタリア、モロッコ、ポーランド、スペイン、スイス、米国にボビナムの学校が開設された。 2009年にベトナムにて第1回世界ボビナム選手権開催される。さらにはアジアオリンピック評議会 (OCA) 主催の第3回アジア・インドア・ゲームの正式種目となった。2010年、世界でボビナムを指導してきたグエンバンチュウ(NguyễnVănChiếu)が世界最高師範に就任、グローバルスポーツとしての地位を確立するに至った。

世界遺産

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